野母崎樺島町 光明山摂取院 無量寺


法然上人御法語

元祖大師御法語(がんそだいしごほうご) 前編(ぜんへん)
第三(だいさん)聖浄二門(しょうじょうにもん)
(ある)(ひと)上人(しょうにん)(もう)させ(たま)御念佛(おねんぶつ)念念(ねんねん)ごとに(ほとけ)御心(みこころ)に、かない(そうろ)うらんなど(もう)しけるを、いかなればと、上人(しょうにん)かえし、とわれければ、智者(ちしゃ)にて、おわしませば、名号(みょうごう)功徳(くどく)をも、くわしく、しろしめし、本願(ほんがん)(さま)をも、あきらかに御心得(おんこころえ)あるがゆえにと、(もう)しけるとき、汝本願(なんじほんがん)(しん)ずる(こと)、まだしかりけり。彌陀如来(みだにょらい)の、本願(ほんがん)名号(みょうごう)は、()こり、(くさ)かり、()つみ、(みず)くむ、たぐいごときのものの、内外(ないげ)ともに、一文不通(いちもんふつう)なるが、となうれば、(かなら)ずうまると(しん)じて、真実(しんじつ)にねがいて、(つね)念佛申(ねんぶつもう)すを、最上(さいじょう)()とす。もし智慧(ちえ)を、もちて、生死(しょうじ)を、はなるべくば、源空(げんくう)いかでか、かの聖道門(しょうどうもん)をすてて、この浄土門(じょうどもん)に、(おもむ)くべきや。聖道門(しょうどうもん)修行(しゅぎょう)は、智慧(ちえ)を、きわめて、生死(しょうじ)を、はなれ、浄土門(じょうどもん)修行(しゅぎょう)は、愚痴(ぐち)に、かえりて、極楽(ごくらく)に、うまると、しるべしとぞ、(おお)せられける。
また、ある人が上人にいった。
「上人が唱えているお念仏は、その一声一声が仏のみ心に叶っていることでありましょう」
上人はそれはどういう意味であるか?と尋ねますとその人はいった。
「上人は勝れた学僧ですから念仏の功徳を詳しく知っておられるでしょうし、本願の意味も十分に心得ておられるからです」
すると、上人はいった。「貴房は阿彌陀佛の本願を信ずる心が浅いのである。
本願の念仏は賤(いや)しい職業とされている木こり、草刈り、菜摘み、水汲みのような人でも、知識も乏しく暮らしが豊かでない者であっても、読み書きのできない者であっても念仏を唱えれば必ず極楽往生ができるのである。
本願を信じて真実の心から往生を願い、常に念仏を唱える者こそ必ず往生できる最上の人である。
もし智慧を極める修業によって迷いの世界から抜け出すことができるものであれば、何んで聖道門を捨てて浄土門を選ぶことがあったであろうか?
聖道門の修業は智慧を究めることによって次第に生死の世界を離れようとするものであり、浄土門の修業は智慧や才覚を加えることをせずに、本願力に身をまかせて念仏を唱え、極楽往生して直ちに生死の世界から離れるのであると知るべきである。」といった。
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