野母崎樺島町 光明山摂取院 無量寺

法然上人の御法語

法然上人御法語

元祖大師御法語(がんそだいしごほうご) 前編(ぜんへん)
第四(だいよん)出世本懐(しゅっせほんがい)
念佛往生(ねんぶつおうじょう)誓願(せいがん)は、平等(びょうどう)慈悲(じひ)(じゅう)して、(おこ)(たま)いたる、(こと)なれば、(ひと)を、きらうことは、候悲(そうら)わぬなり。(ほとけ)御心(みこころ)は、慈悲(じひ)をもて、(たい)とする(こと)にて(そうろ)うなり。されば観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、佛心(ぶっしん)というは、大慈悲(だいじひ)これなりと()かれて(そうろう)善導和尚此(ぜんどうかしょうこ)(もん)()けて、()平等(びょうどう)慈悲(じひ)をもてば、(あまね)一切(いっさい)(せっ)すと、(しゃく)したまえり。一切(いっさい)(ごん)、ひろくして、もるる(ひと)(そうろ)うべからず。それば、念佛往生(ねんぶつおうじょう)(がん)は、これ彌陀如来(みだにょらい)本地(ほんじ)誓願(せいがん)なり。()種々(しゅじゅ)(ぎょう)は、本地(ほんじ)のちかいにあらず。釈迦(しゃか)も、()(いで)(たま)(こと)は、彌陀(みだ)本願(ほんがん)を、とかんと(おぼ)()御心(みこころ)にて(そうら)えども、衆生(しゅじょう)機縁(きえん)(したが)(たま)()は、()種々(しゅじゅ)(ぎょう)をも、()(たま)うは、これ随機(ずいき)(ほう)なり。(ほとけま)の、みずからの、御心(みこころ)(そこ)には(そうら)わず。されば、念佛(ねんぶつ)彌陀(みだ)にも、利生(りしょうら)本願(ほんがんら)釈迦(しゃか)にも出世(しゅっせ)本懐(ほんがい)なり。()種々(しゅじゅ)(ぎょう)には、()(そうろ)なり。
念仏往生の本願は阿彌陀佛が人を区別しない平等の慈悲の上に立っておこし給うた誓願であるから、どのような人であっても差別しないのである。
仏のみ心は慈悲を本体となし給うているのである。だから、観無量寿経に、仏の御心は人々を救わずにはいられない大慈悲心であると説かれている。
善導大師はこの一句を、仏は人々を区別しない平等の慈悲心によって遍く一切の人々を救い給うと説いている。
大師が一切の人々といっているのは、広くすべての人々を含んでいて洩れる者は一人もいないということである。
しかも、念仏往生の願は阿彌陀佛が仏となるい給うために成就した誓願である。その他のいろいろな修行は仏になってから説いた行である。
釈尊はこの世に現れ給うたのは阿彌陀佛の本願を説いて、念仏の行を勧めようとするみ心からであった。
しかし、人々の能力に従っていろいろな修行を説き給うたので、これを随喜の法といっている。決して釈尊ご自身の心底から説き給うた教えではない。
このように念仏は阿彌陀佛がすべての人々を救うためにたて給うた本願の行であり、釈尊にとっては出世の本懐の教えである。
その他の様々な修行とは比較にならないのである。
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