元祖大師御法語 前編
第二十三 一枚起請文
もろこし我が朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる、観念の念にもあらず。
又学問をして、念のこころをさとりて、申す念佛にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀佛と申して、疑なく、往生するぞと、おもいとりて、申す外には、別の仔細候わず。
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿彌陀佛にて、往生するぞと、おもううちに、こもり候うなり。
この外に、奥ふかきことを存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
念佛を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念佛すべし。
為証以両手印
浄土宗の安心起行、この一紙に至極せり。
源空が所存、此の外に全く別義を存ぜず。
滅後の邪義を、ふせがんがために、所存をしるし畢んぬ。
建暦二年正月二十三日
(大師在御判)
ここで説く念仏は、遠い中国やわが国で多くの高僧知識が説いてきたように、仏の相好や功徳を観想しながら唱える念仏ではない。
また、学問をして仏の功徳や念仏の意味を悟る等した上で唱える念仏でもない。
直ちに極楽往生をとげるたねには、南無阿彌陀佛と唱えれば疑いなく往生できると信じて唱えるだけであって、その外に別に詳しいわけがないのである。
ただし三心四修ということがあって、心の持ち方が大切であるといわれていても、南無阿彌陀佛と唱えれば必ず往生できると疑うことなく信じてさえいれば、その心の内に自然に具わるのである。
この外に奥深いわけがないといったとすれば、釈尊と阿弥陀仏の慈悲に背くこととなり、念仏往生の本願に洩れて、往生できなくなるであろう。
念仏往生の教えを信じている人は、たとえ釈尊の一代の法門を十分に学んでいたにしても、一文字も知らない愚鈍な者と変わらない者であると思い、形だけの在家の尼僧のように何も知らない者と同じようにして、知者らしい振舞いをせずに、ただ一向に念仏を唱えなければならない。
以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両手を印としてこの一紙に判を押します。
浄土宗における心の持ちようと行のありかたを、この一紙にすべて極めました。
私、源空の胸の内には、これ以外に異なった理解は全くありません。
私の滅後、間違った見解が出てくるのを防ぐために、考えているところを記し終えました。
建暦二年正月二十三日(法然上人の御手印)