野母崎樺島町 光明山摂取院 無量寺

法然上人の御法語

法然上人御法語

元祖大師御法語(がんそだいしごほうご) 前編(ぜんへん)
第十三(だいじゅうさん) 二行得失(にぎょうとくしつ)
往生(おうじょう)(ぎょう)(おお)しといえども、(おお)いにわかちて、(ふた)つとし(たま)えり。 (ひと)つには専修(せんじゅ)、いわゆる念佛(ねんぶつ)なり。 (ふた)つには雑修(ざっしゅ)、いわゆる一切(いっさい)の、もろもろの(ぎょう)なり。 (かみ)にいう(ところ)定散等(じょうさんとう)これなり。 往生礼讃(おうじょうらいさん)(いわ)く、()()(かみ)(ごと)く、念々相続(ねんねんそうぞく)して、畢命(ひつみょう)()とせば、(じゅう)(すなわ)十生(じゅうしょう)じ、(ひゃく)(すなわ)百生(ひゃくしょう)ず。 已上専修(いじょうせんじゅ)と、雑行(ぞうぎょう)との得失(とくしつ)なり。 (とく)というは、往生(おうじょう)する(こと)()。 いわく、念仏(ねんぶつ)するものは、(じゅう)は、すなわち、十人(じゅうにん)ながら往生(おうじよう)し、(ひゃく)は、すなわち、百人(ひゃくにん)ながら往生(おうじょう)すという、これなり。 (しつ)というは、いわく往生(おうじょう)(やく)を、うしなえるなり。 雑行(ぞうぎょう)のものは、百人(ひゃくにん)(なか)に、まれに、(いち)二人往生(ににんおうじょう)する(こと)()て、その(ほか)(しょう)ぜず。 千人(せんにん)(なか)に、まれに、(さん)五人(ごにん)うまれて、その()はうまれず。 専修(せんじゅ)のものは、みな、うまるる(こと)()るは、なにゆえぞ。 阿弥陀佛(あみだぶつ)本願(ほんがん)に、相応(そうおう)せるがゆえなり。 釈迦如来(しゃかにょらい)のおしえに、随順(ずいじゅん)せるがゆえなり。 雑業(ぞうごう)のものは、うまるる(こと)すくなきは、なにゆえぞ。 彌陀(みだ)本願(ほんがん)に、たがえるゆえなり。 釈迦(しゃか)のおしえに、したがわざるゆえなり。 念佛(ねんぶつ)して、浄土(じょうど)を、もとむるものは、二尊(にそん)御心(みこころ)に、ふかくかなえり。 雑修(ざっしゅ)をして、浄土(じょうど)を、もとむるものは、二佛(にぶつ)御心(みこころ)にそむけり。 善導和尚(ぜんどうかしょう)二行(にぎょう)得失(とくしつ)を、(はん)ぜる(こと)、これのみにあらず。 観経(かんぎょう)(しょ)(もう)すふみの(なか)に、おおく得失(とくしつ)を、あげたり。 しげきがゆえに、いださず。 これをもてしるべし。
 善導大師は往生の行として数多くの修行があるが、これを大きく分けて二つとした。
一つは極楽往生の直接要因を一心に励む専修であって、これが、念仏を唱える行である。
二つには念仏以外の行を兼修する雑業であって、念仏以外のすべての諸行である。
前に述べた定善散善とその他の行が雑修である。
善導大師は往生礼賛偈の中で、次のように説いている。
「もし上に述べた通りに三心を具足し、四修の法によって念仏を念々に相続して唱え、生涯を通してやまなかったならば、その者は十人が十人ながら、百人は百人ながら極楽往生できる。」
 この文は念仏を唱える専修と、その他の雑行との得失を説いた言葉である。
得というのは必ず往生できる勝れた行のことである。
この文に念仏を唱える者は十人が十人ながらおうじょうし、百人は百人ながら往生できると説いているのが得である。
失というのは往生という利益を失った行のことである。
大師は雑行を修めて往生したいと願っても、百人の中で稀に一人か二人が往生できるのであって、その他は往生できないといい、千人の中で稀に三人か五人が往生できても、その他は往生できないと説いている通りである。
念仏を唱える者はすべて往生できるのは何故であろうか?
それは念仏が阿彌陀佛の本願に一致しているからであり、釈尊が後世にまで遺し給うた教えに叶った行であるからである。
雑行を修行しyて往生できるものは少ないのは、何故であるかといえば、雑行は阿彌陀佛の本願に相違しているからであり、釈尊が後世に弘通を命じた行でないからである。
念仏を唱えて極楽往生を願う者は阿彌陀佛とのみ心に深く叶った者である。
雑修によって極楽往生を願う者は釈尊と阿彌陀佛のみ心に背いている者である。
善導大師が専修と雑修との得失を論じているのは、こればかりでない。観経疏という著書の中でも多くの得失を挙げているが、煩雑になるので挙げないことにする。
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