元祖大師御法語 後編
第一難易二道
浄土門というは、この娑婆世界を、いといすてて、いそぎて、極楽にうまるる也。
かの国に、うまるる事は、阿彌陀佛の、ちかいにて、人善悪を、えらばず、ただ、ほとけの、ちかいを、たのみ、たのまざるによる也。
このゆえに、道綽は、浄土の一門のみありて、通入すべき、みちなりと、のたまえり。
されば、このごろ、生死をはなれんと、思わん人は、証しがたき、聖道をすてて、ゆきやすし、浄土をねがうべき也。
この聖道浄土をば、難行道、易行道と、なづけたり。
たとえを、とりて、これをいうに、難行道は、けわしき、みちを、かちにて、ゆくがごとし。
易行道は、海路を、ふねにのりて、ゆくがごとしといえり。
あしなえ、目しい、たらん人は、かかる、みちには、むかうべからず。
ただふねに、のりてのみ、むかいの、きしには、つくなり。
しかるに、このごろのわれらは、智慧の、まなこ、しい、行法の、あしなえたるともがら也。
聖道難行の、けわしきみちには、総じて、のぞみをたつべし。
ただ、彌陀の本願の、ふねにのりて、生死の、うみをわたり、極楽の、きしに、つくべき也。
浄土門というのは、この穢れた婆婆世界を厭い捨てて、寿命を終ったならば直ちに極楽浄土に往生することを説く教えである。
極楽浄土に往生することは阿弥陀仏の本願の力によってできることであって、その人の善し悪しを選んでできることでない。
ただ仏が誓い給うた本願を頼みにするかしないことによって、往生できるかできないかが決まるのである。
このように往生は人の力によるのでないので、道綽(どうしゃく)禅師は『浄土の一門だけが広く誰にも通じ、遠く将来にわたって悟りに入る教えである』といっている。
こうしたわけで、この頃の人が迷いの世界から離れたいと願うならば、修行しても悟りを開くことが難かしい聖道門の教えを捨てて誰でも往生し易い浄土門の教えによって悟りを開くことを願わなくてはならない。
これを例えていうならば、難行道の修行は険しい坂道を徒歩で登るようなものであり、易行道の修行は海路(かじ)を舟に乗って渡るようなものであると説いている。
まして足が萎(な)えて歩くのが不自由な人や、視力をなくして見ることができないような人は険しい坂道に向って行ってはならない。
それよりは船に乗って苦海を渡ってゆけば、やがて悟りの向い岸に着くことができる。
ところがこの頃のわれ等は智慧を学びたくても視力が衰えて見ることができないし、修行したくても足が委えて作法の一つもできないのである。そのために聖道門の難行道という険しい道を登る修行はすべて望みが断たれている。
ただできることは阿弥陀仏の本願という船に乗って生死を繰り返している苦海を渡り、極楽浄土という向い岸に着くことだけである。