元祖大師御法語 後編
第八 安心起行
それ浄土に、往生せんと、おもわば、心と行との、ふたつ相応すべきなり。
かるがゆえに、善導の釈に、ただし、その行のみあるは、行すなわち、ひとりにして、またいたるところなし。
ただその願のみあるは、願すなわち、むなしくして、またいたるところなし。
かならず、願と行と、あいたすけて、なすところ、みな剋すといえり。
およそ、往生のみにかぎらず、聖道門の、得道を、もとめんにも、心と行とを、具すべしといえり。
発心修行と、なづくるこれなり。
今此の浄土宗に、善導のごときは、安心起行となづけたり。
もし極楽浄土に往生したいと願うならば、願う心に相応しい修業がなくてはならない。そこでこのことを善導大師は観経玄義分(かんぎょうげんぎぶん)に中で説いていうのに、仏道を修めるためには心願と身行とが兼ね具っていなければならない。もし、心願を欠いた修業であれば、行き着く先が明確でないために修業が孤立してしまう。もし、身行がなければ、心願が成就されないために虚しい心願となってしまう。心願と身行とが両々相待って扶けあってゆくことによって、初めて1つの目的が達成できる。としている。
願いと修業が兼ね具って初めて目的が達せられることは、往生についていっているばかりでない。聖道門にあって悟りを開きたいと願うにも、悟りを求めたいという願う心と修業とを兼ね具えていなければならないとさsれている。このことを聖道門では発心と修業いっている。いま浄土宗においていえば、善導大師が説いている通り、三心を具えて念仏を唱える安心起行と名づけている。