元祖大師御法語 前編
第二十九 対治慢心
まことしく、念佛を行じて、げにげにしき、念佛者に、なりぬれば、ゆろずの人を見るに、みな、わがこころには、おとりて、あさましく、わろければ、わが身の、よきままに、我はゆゆしき、念佛者にてあるものかな。
誰々にも、勝れたりと思うなり。
この心をば、よくよく、つつしむべき事なり。
世もひろく、人もおおければ、山のおく、林のなかに、こもり居て、人にも、しられぬ、念佛者の、貴く目出たき、さすがに、おおくあるを、わが、きかず、しらぬにてこそあれ。
されば、われ程の念佛者よもあらじとおもう、僻事なり。
この思いは大驕慢にてあれば、即ち三心も、かくるなり。
またそれを、たよりとして、魔縁のきたりて、往生を妨ぐるなり、これ我が身の、いみじくて、罪業をも滅し極楽へもまいる事ならばこそあらめ。
ひとえに、阿彌陀佛の願力にて、煩悩をも、のぞき、罪業をも、けして、かたじけなく、手ずから、みずから、極楽へ、むかえとりて、帰らせまします事也。
我がちからにて、往生することならばこそ、われかしこしという、慢心をば、おこさめ。
驕慢の心だにも、おこりぬれば、心行かならず、あやまれる故に、たちどころに、阿彌陀佛の願に、そむきぬるものにて、彌陀も諸佛も、護念し給わず。
さるままには、悪鬼の、ためにも、なやまさるるなり。
返す返すもつつしみて、驕慢の心を、おこすべからず。
あなかしこあなかしこ。
実直に念仏を唱えていても、もっともらしい念仏行者になると、他の人たちを見て人々の心が自分の心よりも劣った甚だ至らぬ人のように見えてくる。
自分は真実に精進している立派な念仏者であると自負するようになり、誰れ誰らよりも勝れていると思うようになる。このように慢心すうrことは、よくよく慎まねばならない。
世間は広いし人も多いのであるから、山の奥や林の中に篭って暮らしていて人に知られていない念仏行者の中には、尊く立派な人がやはり多いのである。
ただ聞いたことがないために知られていないだけのことである。
従って自分程に勝れた念仏行者は他にあるまいと思うのは間違いである。
このように自分だけが勝れていると思うのは大僑慢であって凡夫という自覚がなく三心を欠いた人である。
もし僑慢の心を起こすと、それに付け入って名聞利養を求める魔縁が近づいて、その人の往生妨げることになる。
それはわが身の勝れた修行によって罪業が滅せられ、極楽往生ができるのであると考えるからである。
そうではなくて念仏を唱えれば阿彌陀佛の慈光に浴し、煩悩を除いて罪業を消すことができるし、かたじけなくも来迎し給うた阿彌陀佛が手ずから行者を蓮華台に迎え、行者を導いて極楽浄土に帰り給うたのである。
自分の力によって往生できると思うからこそ、己れの才知が勝れていると思う慢心を起こすのである。
もし僑慢の心を起こしたとすると念仏の心も全く違ったものになり、そのまま阿彌陀佛の本願に背くことになって阿彌陀佛も諸仏も護念し給わぬのである。
そうなれば悪鬼邪神が近づいて、悩まされることになる。
返す返すも自ら慎んで僑慢の心を起こしてはならない」