野母崎樺島町 光明山摂取院 無量寺


法然上人御法語

元祖大師御法語(がんそだいしごほうご) 前編(ぜんへん)
第十五(だいじゅうご) 信行双修(しんぎょうそうしゅ)
一念十念(いちねんじゅうねん)に、往生(おうじょう)をすと、いえばとて、念佛(ねんぶつ)を、疎想(そそう)(もう)すは、(しん)(ぎょう)を、さまたぐるなり。 念々不捨者(ねんねんふしゃしゃ)と、いえばとて、一念(いちねん)不定(ふじょう)におもうは、(ぎょう)(しん)をさまたぐるなり。 (しん)をば、一念(いちねん)に、うまると(しん)じ、(ぎょう)をば、一形(いちぎょう)に、はげむべし。 又一念(またいちねん)を、不定(ふじょう)(おも)うは、念々(ねんねん)念佛(ねんぶつ)ごとに、不信(ふしん)念佛(ねんぶつ)になるなり。 ()(ゆえ)は、阿彌陀佛(あみだぶつ)は、一念(いちねん)一度(いちど)の、往生(おうじょう)をあておき(たま)える(がん)なれば、(ねん)ごとに、往生(おうじょう)(ごう)となるなり。
一念十念の念仏で往生できるからといって念仏を疎略に唱えるのは、信心が修行を妨げているのである。
念々に捨てることなく念仏を相続するように説かれているからといって、一念の念仏では往生できないと考えるのは、修行が信心を妨げているのである。
信心では一遍に念仏で往生できると固く信じ、行では生涯を通じて念仏の相続に励まなければいけない。
もし一遍の念仏では往生できないと思っているとすれば、一つ一つの念仏がすべて往生を信じていない念仏となる。
阿彌陀佛の本願は一遍に念仏を唱える毎に必ず往生させると誓い給うているのであるから、念仏の一声一声が必ず往生できる修行となるのである。
今月のことば
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