元祖大師御法語 後編
第二十九 一蓮托生
会者定離は、常の習、今はじめたるにはあらず。
何ぞ深く歎かんや。
宿縁空しからずば、同一蓮に坐せん。
浄土の再会は甚だ近きにあり。
今の別は、暫くの悲しみ、春の夜の夢の如し。
信謗ともに縁として、先に生れて、後を導かん、引接縁は、これ浄土の楽なり。
夫れ現生すら、猶もて疎からず、同名号を唱え、同一光明の中にありて、同聖衆の護念を蒙る。
同法尤も親し。
愚に疎しと思し食すべからず。
南無阿彌陀佛と唱え給えば、住所は隔つといえども、源空に親しとす。
源空も、南無阿彌陀佛と唱え、たてまつるが故也。
念佛を縡とせざる人は、肩を並べ、膝を与むといえども、源空に疎かるべし。
三業皆異なるが故なり。
会者定離はこの世の道理であって、今に始まることではありません。
どうして深く欺く必要がありましょうか。
ずっと以前からの縁が空しいものでないならば、行く末は同じ蓮台に坐ることになりましょう。
浄土での再会も間もないものです。
今のお別れは、ひと時の悲しみであつて、春の夜の夢のようなものです。
念仏の教えが信順されようが誹謗されようが、それぞれを縁として先ずは自らが往生して、後の人たちを導くようにいたしましょう。
引接縁というのは、極楽浄土の「楽」の一つでもあるのです。
私どもはこの現世ですら疎遠な間柄ではなかったのですから、同じ名号を唱え、同じ光明の中に在って、同じ聖衆の護念を蒙るのです。
信仰を同じくしている者は、最も親しい間柄であるのですから、思慮もなく、疎遠となってしまうと思われてはなりません。
南無阿弥陀仏と唱えなされば、たとえ住所は隔たっていても、源空に親しいのです。
というのも、源空もまた南無阿弥陀仏と唱え申し上げているからです。
念仏を亊としない人は、たとえ源空と肩を並べ、膝を交えたとしても、源空には疎遠の人なのです。身・口・意の三業が皆、私とは異なっているからです。